みなさま、あけましておめでとうございます。

みなさまの上に、今年も神の恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。
今年もよろしくお願いいたします。
教会では、2022年元日、午前11:00~12:00、新年礼拝(オープン礼拝)を行いました。

新年礼拝では、新年にふさわしい賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、この一年が神に守られ、祝福されるように、心を合わせて祈りました。
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今年は、教会メンバーの中に新成人となられる方がおられ、帰省中のご本人の都合に合わせて、この新年礼拝の中で、
「新成人の祝福」(教会の成人式)をしました。
「新成人の祝福」は、聖書朗読、式辞、祝福の祈りから成ります。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 箴言3章5~6節)
大人の仲間入りをするのですから、人としての分別を身に着けてもらわなければなりません。
とはいえ、私たち人間はやはりどこまでいっても、弱さ、愚かさを持ち続ける存在です。
そういう自分の弱さ、愚かさ、足りなさを自覚できる人になっていただきたいなと思います。
その意味で、自分の分別に頼らず(つまり、自分の力を過信せず)、神の前にへりくだり、主なる神を信頼し、いつも主を心に覚えて、これからの人生を歩んでいただきたいものです。
他のだれのでもない、あなたの道を歩んでください。つまずいたり、道に迷うこともあるでしょう。しかし、どんなときにも主があなたと共にいてくださり、あなたの道筋をまっすぐにしてくださいます。
というようなお話をし、新成人者のために祝福の祈りをいたしました。
御成人おめでとうございます!
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聖書のお話では、詩編133篇から、
「共に集え、シオンに。神の祝福はそこにある」というお話をしました。
「都に上る歌。ダビデの詩。
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、何という喜び。」
(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 詩編 133篇1節)

「人生は旅」と言われます。
私たち信仰者にとっては、人生は天の御国をめざす巡礼の旅のようなものです。
この詩編133篇について、簡単にご説明します。
1.詩編133篇は、「都に上る歌」つまり巡礼の歌です。旧約時代のイスラエルにおいても、神を礼拝するために聖所をめざす巡礼がありました。
めざすべき聖地にたどり着いたとき、巡礼者たちは無事たどりつけたことを喜び、その旅路を神が守ってくださったことを心から感謝したことでしょう。その場には同じようにこの地をめざして歩いてきた同胞たちがいます。そこで、「見よ、兄弟たちが共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と歌うのです。
2.詩編133篇は、「ダビデの詩」との表題がつけられています。ダビデはイスラエル統一王国を確立した王です。イスラエル12部族が統一され、各地から人々が都エルサレムをめざして巡礼にやってきます。神の前に共に集い、一つの国、一つの民とされたことを共に喜び祝う。そこで、「見よ、兄弟たちが共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。人々はその喜びをこの巡礼歌にのせて歌ったと考えられます。
3.詩編133篇は、用語にバビロン捕囚後の特色が見られます。つまり、この歌が書かれたのはバビロン捕囚後であろうということになります。
バビロン捕囚とは、ユダヤがバビロンに打ち負かされ、国が滅び、多くの民がバビロンに捕え移された事件です。しかしその後、バビロンを打ち負かしたアケメネス朝ペルシアのクロス王によって解放令が出されます。民はユダヤに戻り、国を再建しました。
彼らは、まず神殿を再建しました。神礼拝を国家再建の柱と考えたからです。再建された神殿に人々が詣で、神礼拝を中心とする国家再建がなされていきます。
「捕え移されていた我々ではあったが、今、こうして再びこの地に戻ることができた。そして、神殿を再建することができた。その神殿に人々が再び共に集い、神を礼拝し、新しく歩もうとしている。」
そこで、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」となるのです。
ですから、詩編133篇は巡礼歌であるのですが、人々はそれぞれの時代のそれぞれの状況の中で、自分たちの体験と思いをのせてこの歌を歌ってきたのです。
これらを踏まえたうえで、3つのことをお話しします。
1.巡礼者たちは一つの家族である。巡礼では、長い道のりを歩いて行くことになります。元々の知り合いが共に旅を始めるということもあるでしょうが、いろいろな人が、いろいろなところから、いろいろな人生と思いを抱えて、歩き始めます。
歩いて行く中で、抜きつ抜かれつしていく中で、次第に顔見知りになり、会話を交わすようになり、やがて旅仲間となっていく。
どこから来たのか、どんな人生を歩んで来たのか、どんな願いを持って歩んでいるのか。
そうしたことを語り合い、祈り合い、同じ目的地をめざして歩いて行く。
そうして目的地にたどり着いたとき、彼らはその旅路が守られたことを共に喜び、互いの人生の祝福を祈り合う。
共に歩く中で、巡礼者たちは一つの家族のようなものとなっていきます。
私たちも同じです。
私たちは、同じ目的地に向かって、同じ旅路を歩む仲間、共に生きる仲間、一つの大きな家族となっていくのです。
2.共に集えることの恵み人生の旅路を共に歩む私たちは、こうして毎週、主日礼拝に共に集っているわけですが、私たちはそれを当たり前のことのように思っています。
しかし考えてみれば、それは決して当たり前にできることではないんですね。
イスラエルの歴史においては、バビロン捕囚のような出来事がありました。共に集いたくても集えない。そういう状況があったわけです。
今日においても、戦争や災害、そういった出来事によって、「共に集いたくても集えない」ということが起こりうるのです。
今回の新型コロナで、私たちはそれを体験しました。
共に集うことは、当たり前にできることではありません。
この世界には予期せぬことが起こりうるし、共同体は離散の危機に直面することがあるのです。
そのとき私たちは、当たり前だと思っていたことが、決して当たり前のことではなく、「恵み」であったことに気づくのです。
共に集えることは、「恵み」です。
だから、共に集えることを、その一回一回の集いを、大事に大事にしていきたいのです。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあるとおりです。
3.その恵みは、シオンから来るさて、その恵みを、私たちはどこで体験できるのでしょうか。
その恵みは、だれによってもたらされるのでしょうか。
133篇には、「シオン」という言葉が出てきます。
シオン、それは「神の住まい」のことです。
共に集うことの恵み、喜び、祝福、とこしえの命は「シオン」にあり、「シオン」に住まわれる神によって与えられるのだ、ということなんですね。
そうです。神は、私たちを一つにし、私たちを祝福してくださるお方なのです。
だから、この一年も、この神のもとに共に集い、共に生きていきましょう。
神の祝福は、そこに(その生き方に)あるのです。
…というお話をしました。
毎週10~15人が集まる、肩肘張らない素朴な教会です。
信者であるなしにかかわらず、どなたも歓迎いたします。
小さなお子様連れも、ご高齢の方も、大歓迎です。
お問い合わせは
富山キリスト教会 電話&FAX 076-491-4622 まで。 または、当ブログのPC版表示「左サイドバー」の
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