主日礼拝 「運命と使命」

2017年2月12日(日)、主日礼拝の日の朝。

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画像講壇脇には、黄梅。

教会メンバーが、「ちょうど見頃になったから」と家から持って来てくださったもの。

黄梅の漢名は、「迎春花」。

今日は雪の日でしたが、春が近づきつつあることを感じる一日でした。


主日礼拝での聖書の話は、旧約聖書エステル記4章から、「この時のためにこそ」というタイトルでお話ししました。

エステル記4章は、私たち信者にとっては、心動かされるドラマチックな聖書箇所。

今日はそこから特に、「運命を使命とする」ということをお話ししました。

「私は、何のために生きているのだろう・・・」ということは、だれでも一度ならず考えたことがあるのではないかと思います。

その意味で、「人間は、人生の意味を問う存在である」と言えるでしょう。

人それぞれに、運命があります。

運命・・・それは、人間を超越した力によって決定されていて、人間の力ではどうすることもできないものです。(ここでは、一般的な意味で、運命という言葉を使っています。)

ですから、運命は、運ばれる命と書きます。この点で、私たちは受け身でしかありません。

しかし、それだけだと、流されるだけで終わってしまう、場合によっては、運命を嘆く、運命を呪うということにもなりかねません。

一方、使命には、「与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務」という意味があります。

ですから、使命は、命を使うと書きます。人生において、私たちは命の使い方が問われています。

エステル記の主人公エステルは、危機的な状況の中で、自分の運命を自分の使命として受け止めた人でした。

自分の運命を自分の使命として受け止めるとき、そこに主体的な生き方が生まれます。

ところで、うまく説明する自信がちょっとないのですが、「使命は与えられるのを待つものではない」と言えると思うのですが、いかがでしょう。

自分の人生を自分なりに解釈し、何のために生きるか、何のために命を使うかを、自分自身で決断していくことによって、それが自分の使命というものになっていくのではないか。

エステル記を読むときに、そのようなことを考えさせられるのです。


教会では、毎週日曜日の午前10:30~12:00に、「主日礼拝」を行っています。
賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、祈りをささげる厳かなひとときです。

毎週10~15人ほどが集まる肩肘張らない素朴な教会です。
教会の礼拝は、信者であるなしにかかわらず、どなたもご参加いただけます。
どなたも、ぜひ、ご来会ください。

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