「スプリングコンサート」をしました。

2018年4月28日(土)午後7:00~8:30、スプリングコンサートをしました。

画像音楽ゲスト「トリプレッツ」のコンサート、牧師による聖書の話、ティータイムの楽しい90分。

ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの美しい演奏が礼拝堂に響きます。

画像みなさんからは、「選曲がよかった。どの歌も、歌詞の一言一言が心に響いて、いやされました」 というような内容の感想を多くいただきました。ありがとうございます。

新年度が始まって、一か月。それぞれお忙しかったのではないかと思います。このコンサートで、ホッと一息ついていただけたなら、企画した私どもとしてもうれしく存じます。

画像聖書の話では、旧約聖書 創世記28章10~19節から、
「わたしはあなたと共にいる」というタイトルでお話ししました。

(聖書は、「日本聖書協会」のウェブサイト、「聖書本文検索」でお読みになることができます。)


聖書の話 「わたしはあなたと共にいる」


1.「石の枕」

「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。」(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 創世記28章10、11節)

ヤコブという人が出てきました。どうも野宿せざるを得なくなったようで、「石を枕にして横たわった」と書いてあります。石の枕だなんて、痛そうですね。眠れるのでしょうか。彼は、どうして石を枕にしなければならなくなったのでしょう。

実は、彼には、エサウという兄がいたのですが、ヤコブは父をだます形で、兄エサウが相続すべき神の祝福の権利を奪い取ってしまいます。それを知ったエサウは当然怒りまして、ヤコブを憎んで殺してやろうとまで思うようになりました。

すると、それを知った母リベカがヤコブを呼びまして、「エサウがあなたを殺して恨みを晴らそうとしている。急いでハランまで逃げなさい。そこにわたしの兄、つまりあなたの伯父さんがいるから、エサウの怒りが治まるまで、そこに居させてもらいなさい。エサウの怒りが治まり、状況が落ち着いたら、お前を呼び戻します」と言って、ヤコブを逃がすわけです。

そして、先ほどお読みした冒頭の、「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランヘ向かった」に続くのです。ハランまでは直線距離にして、約500km。長い長い旅の始まりです。

日が沈み、彼は石を枕にして横たわりました。
一人きりになってしまった心細さや、野獣や盗賊に襲われたらどうしようという恐怖もあったでしょう。

しかし、彼にとって一番大きな問題は、
「自分の人生はこれからどうなるのだろうか という不安」だったにちがいありません。

「なんで、あんなことをしてしまったのだろう。なんで、こんなことになってしまったのだろう。母さんは、わたしを呼び戻すと言ってくれたけれど、わたしは本当にここに戻って来ることができるのだろうか。本当にこの先、わたしはどうなってしまうのだろう…。」

石を枕にして横たわり、彼は後悔や将来の不安で、なかなか寝つけなかったのではないかと思うのです。

みなさん、私たちの人生にも、こうした石を枕にするような夜、心配や不安でなかなか寝つけない夜、があるのではないでしょうか。

私はこの箇所を読むたびに、高校を卒業して、名古屋で一人、浪人生活を始めた頃のことを思い出します。大学受験がうまくいかなかったのです。自分はダメだという挫折感がありましたし、悔しさ、情けなさもありました。一人暮らしの心細さもありました。事情で予備校には行かず、一人で受験勉強を続けることにしたのですが、果たして続けていけるのだろうかという不安もありました。そして、勉強したとしても、来年合格できるかどうかはわかりません。大きな不安を抱えて、それこそ、夜なかなか眠れなかったことを思い出します。

人間、生きていれば、いろいろあります。みなさんにも、同じように、こうした夜があるのではないでしょうか。あったのではないでしょうか。


2.「夢の中に現れた神」

その夜、ヤコブは一つの夢を見ました。
先端が天まで達する階段が地上に向かって伸びていて、神の御使いたちが上ったり下ったりしていた。と気づけば、主がヤコブの傍らに立っておられた。

どういうことかと言うと、神がその階段を使って、ヤコブのところまで降りて来てくださった、ということなのですね。

そして、神はヤコブに、「わたしはあなたを祝福する。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたを決して見捨てない」ということを語るのです。

この箇所では、神がどのようなお方であるかについて、次のようなことがわかります。

①神様は、私たちのところにまで降りて来て、私たちの傍ら、すぐそばにお立ちくださるお方です。

大きな不安の中で、私たちはしばしば孤独を感じます。しかし、神は私たちを決して一人にはなさらない。神は、私たちの傍らに立ち、共にいようとしてくださるお方です。

②神様は、私たちに祝福の言葉、希望の言葉を語ってくださるお方です。

大きな不安の中にいるヤコブに、神は語りかけました。
「わたしはあなたを祝福する。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、あなたを守る。わたしはあなたを決して見捨てない。」
ヤコブはどれほど勇気づけられたことでしょう。神は、私たちに「希望の言葉」を語ってくださるお方です。

③神様は、私たちを責めないお方です。

もちろん、ヤコブの場合、自業自得の部分があるわけです。
しかし、不思議にも、神はヤコブのことを、ここで一言も責めておられないのですね。不思議だとは思いませんか。

つまり、神様は、弱さや愚かさを持った私たちを、そのまま受け止めてくださるお方なのです。

だいたい私たちは、人から責められ、自分自身を責めて生きています。しかし、それでは滅んでしまう。

神のみこころは、私たちが滅びることではなく、むしろその滅びから私たちを救い出し、活かすこと、新しく造りかえることにあるのです。

ヤコブは、ここで、このとき、「神と出会った」 のでした。


3.「新しく歩み出す」

眠りから覚めたヤコブは言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

神は、私たちと共にいようとされるお方です。私たちのところまで降りて来て、傍らに立ち、希望の言葉を語り、共に歩こうとされるお方です。

なのに、それを知らない私たちがいる。それに気づかない私たちがいる。

ヤコブもそうでした。しかし、彼は夢を通して、神が共におられることを知ったのです。気づいたのです。

そこで彼は、こう言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

ヤコブは、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立てました。

ここから、ヤコブは、神が共におられることを信じて、新しく歩み出したのです。

ヤコブは、決して立派な人ではありませんでした。この後も、いろいろと問題を起こします。
しかし、神は、ヤコブに約束したように、彼と共にいて、彼を守り、決して見捨てることをなさいませんでした。
ヤコブは、人生に起こるさまざまな出来事をとおして、神が共におられることを知るようになっていくのです。

ちなみに、このあと20年後、神の約束のとおり、ヤコブは再びこの土地に戻ることができ、兄エサウとも再会して和解します。神は、ヤコブにとっての「人生の宿題」を一つひとつ解決してくださるのです。

「この先、自分はどうなってしまうのだろう。」
石を枕に、不安な夜を過ごしたヤコブでしたが、神が共におられることを信じて歩み出し、またそのように人生を歩み続け、彼自身の人生を全うしました。

神を信じることが、彼に、「生きていく力」 を与えたのです。

人は言うかもしれません。
「ただ夢を見ただけの話でしょう」、「神なんていないよ」、「神なんて信じたって無駄だよ。」

しかし、私はそうは思わないのです。
というのは、私自身も、神を信じることによって、「生きる力」をいただいて来たからです。

先ほど、「この箇所を読むたびに、名古屋で浪人生活を始めた頃のことを思い出す」と申しました。不安の中にあった私でしたが、そのときすでに洗礼を受けてキリスト信者になっていましたから、聖書を開いて、神に祈ることができました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」この言葉に、私もどれだけ慰められ、勇気づけられたかしれません。

幸いに、翌年希望する大学に入ることができましたが、ヤコブと同じように、その後の人生でも、悩んだり、行き詰まりを覚えることが多々ありました。今もあります。

しかし、いつも、どのようなときにも、私の心に聖書の言葉、神の言葉が響くのです。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。」

かつてヤコブに語りかけたように、神は、私たちにも語りかけておられます。

みなさんも、共におられる神を信じて、新しく歩み出しませんか。


というようなお話をしました。

おしゃべりティータイムでは、みなさん楽しそうにおしゃべりを楽しんでおられました。

普段の生活とはちょっと違う、心癒されるひとときを過ごしていただけたなら、私たちもうれしく存じます。

教会では、スプリングコンサートのほか、オータムコンサート(10月)、クリスマス・キャンドルサービス(12月)を企画しています。信者であるなしにかかわらず、どなたも歓迎いたします。

聖書やキリスト教信仰に興味関心をお持ちの方は、「バイブルクラス」がございますので、お気軽にお尋ねください。

教会の礼拝は、いつでもどなたも歓迎いたします。

画像毎週10~15人が集まる、肩ひじ張らない素朴な教会です。
遠慮なく、お気軽にお越しください。