「オータムコンサート」をしました!

2017年10月21日(土)午後7:00~8:30、オータムコンサートをしました。

画像音楽ゲスト「トリプレッツ」のコンサート、牧師による聖書の話、ティータイムの楽しい90分。

ソプラノ、ヴァイオリン、ピアノの演奏がすばらしいのはもちろんですが、トリプレッツのみなさんの自然な明るさがすばらしい。音楽を愛し、楽しんでおられる様子がとてもよく伝わって来て、私たちも引き込まれました。

ヴァイオリン・ソロは、「G線上のアリア」。
「なぜ、『G線上のアリア』というのか」という、曲名の由来紹介が興味深かったです。
ホントに、美しい曲ですよね。

画像聴くだけでなく、来会者のみなさんで一緒に歌うコーナーもあって、楽しかったです。

すばらしい音楽を生で聴けて、何とも贅沢な感じがしました。

今から、次回の春のコンサートが楽しみです!

聖書の話では、旧約聖書 創世記2章18節、そして新約聖書 ヨハネによる福音書13章34節から、
「共に生きる仲間」というタイトルでお話ししました。

毎回、コンサートの選曲は、基本、トリプレッツのみなさんにお任せしているのですが、今回選曲してくださったテーマを考えてみると、「恋」、そして「愛」だったような気がします。

恋…。
いいですよねえ。人を好きになるってことは、本当にすばらしいことです。

そして、愛…。
いいですよねえ。恋のような高鳴る気持ちはなくなっても、支え合って生きていく中で深まっていく、お互いを大切に思う心。

どの曲も、いい歌でしたねえ。

人は、だれかがそばにいてくれると強くなれますし、また、大切な人が悩んだり悲しんだりしている時には、そばにいてあげたいと思いますよね。

それは、恋愛や夫婦に限らず、親子や家族、親しい友人などの関係にもいえると思います。

そういう大切な人たちを、今日、全部まとめて、「共に生きる仲間」と呼びたいと思います。

私にとっては、まず家内が共に生きる仲間ですし、家族、教会の人たち、そして、今日いらしてくださったみなさんも、共に生きる仲間です。みなさんも、そうした共に生きる仲間をお持ちかと思います。

今日は、そういう「共に生きる仲間」のことをお話ししてみたいと思います。


1. 「神様は、私たちに『共に生きる仲間』を与えてくださいました。」

3つのことをお話ししたいと思いますが、まず第一番目にお話ししたいこと、それは、「神様は、私たちに『共に生きる仲間』を与えてくださった」ということです。

聖書の創世記には、神がこの世界をお造りになられて、そして人間をお造りになられたことが書かれています。

最初に造られた人は、孤独でした。
彼以外に、人がいなかったからです。

そこで、神は言われました。
主なる神は言われた。
 「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう。」
(日本聖書協会「新共同訳聖書」 創世記2章18節bc)

神は、彼を深い眠りに落とし、眠っている間に、彼のあばら骨の一部を抜き取り、それを用いて最初の女性をお造りになりました。

目を覚ました彼は、彼女を見てこう言いました。
人は言った。
 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
(日本聖書協会「新共同訳聖書」 創世記2章23節)

ちょっと文学的な表現ですが、つまり、彼にとって彼女は自分の身を分けた存在、もともと一つであって、なくてはならない大切な存在だ、という意味です。(「自分の身を分けた」って言うのは、普通、親子の関係で使われる表現なんですが、この場合は、まさに身を分けた夫婦関係)。

ですから、聖書はこう語ります。
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
(日本聖書協会「新共同訳聖書」 創世記2章24節)

「最初の人」から「女」が造られ、この夫婦から子供たちが生まれ、人類が形成されていくことになります。

ここで、みなさんに覚えていただきたいことは、「『人が独りでいるのは良くない』と、神が言われた」ということです。

独身がよくないとか、一人暮らしがよくないとか、そういうことを言っているのではありません。
「人が独りでいるということ、つながりあう人がいないということ、それがよくない」と、神はおっしゃったのです。

独りは、「一人」ではなく、「独り」と書かれています。孤独の「独」ですよね。

一人で暮らしていても、お隣さんとつながっていれば、孤独ではありません。
でも、家族で暮らしていても、人がいっぱいいる都会で暮らしていても、だれともつながっていなかったら、心と心のつながりがそこになかったら、その人は孤独です。

そこには、「愛」がありません。愛は、他者との結びつきがなければ生まれないものなのです。

聖書には、こう書かれています。
神は愛です。
(日本聖書協会「新共同訳聖書」 ヨハネの手紙一4章16節b)

神は愛です。だからこそ、神は、「人が独りでいるのは良くない」と思われたのです。
「彼にも、愛し愛される、共に生きる仲間が必要だ。」

人が生きていく上で本当に必要なもの、それは「共に生きる仲間」です。

神様はそのことをよくご存じなので、私たち人間に、「共に生きる仲間」を与えてくださったんですね。

みなさんの周りにいる家族や友人は、神様があなたのために与えてくださった共に生きる仲間なのです。

どうぞ今、みなさんの家族や友人など、親しい人々の顔を思い浮かべてください。
一つひとつの出会い、つながりの中に、神様の導きがあるのです。

神様は、私たちに「共に生きる仲間」を与えてくださいました。
今日はまず、そのことを覚えていただきたいと思います。


2. 「共に生きていますか?」

ところで、みなさん。神様が与えてくださった「共に生きる仲間」と、共に生きていらっしゃいますか?

「ええ、家族とは一緒に暮らしていますよ。」
ええ、そうでしょう、そうでしょう。

しかし、お聞きしたいのは、「本当に共に生きていますか?」、「共に生きようとしていますか?」ということなのです。

先ほど、「家族で暮らしていても、だれともつながっていなかったら、心のつながりがそこになかったら、その人は孤独です」と申しました。

心のつながりを失った夫婦がいる。
心がつながらなくなった親子がいる。
新聞やテレビで、そうした話をみなさんもよくお聞きになっているでしょう?

結婚するときに、離婚することを考えている人は、まずいません。みなさん幸せになろうと、心を一つにして結婚するのです。ところが残念ながら、心のつながりが失われてしまうケースもあるのです。

親子の関係だって、同じです。子供が生まれたとき、うれしくてうれしくて、子供の幸せを願って、必死に名前を考えたはずです。ところが残念ながら、心がつながらなくなって、親子関係の問題が出てくるわけです。

言いたいことは何かというと、「一緒に暮らしているから夫婦」、「同居しているから親子」、なのではない、ということです。

「夫婦である」ということと、「夫婦になる」ということには、違いがあります。
法的に夫婦であっても、夫婦となっても、本当の意味で、人生を共に生きる夫婦となろうとしていかなければ、夫婦とはなれないのではないだろうか、ということなのです。

「家族である」ということと、「家族になる」ということにも、違いがあります。
なっていく、なろうとしていく、そういう心があるかないかの違いがあるわけです。

先ほど、最初の人アダムとエバの話をしました。
この夫婦がその後どうなったか、みなさんご存じですか?
「アダムとエバは、いつまでも、幸せに暮らしましたとさ」には、ならなかったのです。

実は、その後、この夫婦には大きな亀裂が生じてしまうのです。自分の罪を他者になすりつけるという形で、夫婦のつながりが壊れてしまうのです。

彼らには、カインとアベルという子供が生まれます。
しかし、この兄弟の関係も、兄カインが弟アベルを殺してしまうという形で、壊れてしまうのです。

共に生きる仲間として存在していても、共に生きようとしないならば、その関係は壊れてしまうんですね。

神様は、私たちに「共に生きる仲間」を与えてくださいました。
しかし私たちは、自動的に「共に生きる仲間」になれるわけではないのです。

「共に生きようとするときに」、初めて「共に生きる仲間」となる、なっていくことができるんですね。


3. 「共に生きる仲間となるために大切なこと」

大切なことは、「この人と、この人たちと、共に生きていこう」とする意志を持つことです。

共に生きるとは、愛するということと同じです。

多くの人は、愛は感情だと思っています。愛情という言葉もあるくらいですから。

しかし、愛の本質が感情であるとしたら、愛は情緒的な気分に左右されることになってしまいます。

その日の気分とか、「あなたが~だったら、~してくれたら、愛してあげる」というような条件つきのものになってしまいます。

すると、「昔は愛していたけど、今は愛していない。愛は冷えた」というようなことが起こりうるわけですね。

しかしみなさん、どうぞ覚えてください。
愛とは、感情ではなく、意志なのです。
どんなときにも、この人を、この人たちを、愛していこうとする、その意志を愛というのです。

坂本九さんの「心の瞳」という、(おそらくは)夫婦の愛を歌った、ジーンとくる歌があります。

歌詞の中に、「愛のすべて 時の歩み」、「愛の深さ 時の重さ」という言葉が出てきます。

人生をわかち合うためには、愛するということが必要です。
夫婦もそうです。親子もそうです。友人もそうです。
この人を愛していこう、この人と共に生きていこう。
そういう思いを持って、意志を持って、共に生きるときに、その「時の歩み」にしたがって、愛は深まり、共に過ごして来た「時」に、重みが増してくるのではないでしょうか。

かつて私は、自分のことしか考えない人間でした。私には、共に生きる仲間はいませんでした。私自身が愛を知りませんでしたし、人を愛そうとせず、共に生きようとしなかったからです。

しかし、そんな私が、教会に行くようになって、聖書を読んで、イエス・キリストに出会って、神の愛を知る者となりました。イエス・キリストを信じてから、私は少しずつ変わり始めました。

ヨハネによる福音書の中で、イエス・キリストはこのように語っています。
「あなたがたに新しい戒めを与える。
 互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、
 あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(日本聖書協会「新共同訳聖書」 ヨハネによる福音書13章34節)

「わたしがあなたがたを愛したように」
神の愛、イエス・キリストの愛を知るようになって、この言葉は私の心にリアルに響くようになりました。

だから、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

もちろん、私は完璧な人間ではありませんし、なれるとも思っていません。
でも、神の愛を知り、イエスを信じることで、少しずつ変えられてきました。
神を愛し、人を愛するということが、少しずつわかるようになってきたのです。

そして、その可能性は、みなさんにも同じように開かれています。

イエス・キリストを信じ、共に生きる仲間となって、人生を共に歩みませんか?


というようなお話をしました。


ティータイムでは、みなさん楽しそうにおしゃべりを楽しんでおられました。

普段の生活とはちょっと違う、心癒されるひとときを過ごしていただけたなら、私たちもうれしく存じます。


当教会の次の大きなイベントは、
12月の「クリスマス・キャンドルサービス」と、「クリスマス主日礼拝」
となります。
詳細は、このブログでお知らせいたします。

また、毎週日曜日午前10:30~12:00には、「主日礼拝」が行われています。信者であるなしにかかわらず、どなたも歓迎いたします。


画像教会の礼拝は、いつでもどなたも歓迎いたします。

毎週10~15人が集まる、肩ひじ張らない素朴な教会です。
遠慮なく、お気軽にお越しください。