「キャンドルサービスⅡ」をしました。

2018年12月23日(日)午後7:00~8:30、キャンドルサービスⅡを行いました。

クリスマスの賛美歌を歌い、聖書から救い主イエス・キリストの誕生の出来事をお話ししました。

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画像聖書の話のタイトルは、
 「神を求める心」

マタイによる福音書2章1~12節から、お話ししました。

(聖書は、「日本聖書協会」のウェブサイト、「聖書本文検索」でお読みになることができます。)


「You は何しに日本へ?」というテレビ番組があります。日本にやって来た外国人に、「Why did you come to Japan ?」、「あなたは何をしに日本に来たのですか?」とマイクを向けて、おもしろそうな外国人に密着して彼らの様子を紹介するバラエティ番組です。

タイトルがおもしろい。「You は何しに日本へ?」
この人は、どこの国から、何をしにやって来たのか?
興味がそそられますよね。
そこには、一人ひとりのちょっとした物語があるのだと思うのです。

ただいまお読みした聖書の箇所は、今から約2,000年前、イエスがお生まれになったときに、占星術の学者たちが東の国からやって来た、というお話です。

都エルサレム、そしてベツレヘムは、東方からの思わぬ珍客を迎えたわけです。
それこそ、「You は何しにユダヤまで?」ですよね。

今日は、この占星術の学者たちのことをお話しさせていただきたいと思います。

タイトルは、「神を求める心」です。

いつものように、三つのことをお話しします。


1. 彼らは、星を見て出発した。

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彼らは、「占星術の学者たち」でした。

占星術とは、星占いのことです。地上の出来事は、天体の動きによって影響を受ける、というのがその考え方です。

天体の動きには法則性があります。四季の移り変わりはそうした天体の動きによるものですから、それをよく観察して、農業などに活かすということがまずあったでしょう。その意味では、彼らは天文学者のような存在です。

また、天体の動きが、国や個人の運命にも影響を及ぼすと考えられていました。その意味では、彼らはまさに占い師であり、予言者であり、宗教儀式を執り行う祭司のような存在であったと思われます。

毎晩、星を観察するのが、彼らの仕事でした。

彼らは、「東の方から」やって来たとあります。
どこの国かは、よくわかっていません。ユダヤの東の方角には、チグリス・ユーフラテス川が流れるメソポタミア地方があります。この地域は古くから文明が栄え、天文学や占星術が盛んに行われていました。ですから、彼らは、このメソポタミア地方から来たのではないかと考えられています。あるいは、さらに東からかもしれません。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

東方から来た彼らは、ユダヤ人ではありません。ユダヤ人ではない彼らが、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みに来たとは、いったい、どういうわけでしょう。

これには、世界史で習う「バビロン捕囚」という出来事が関係しています。
イエスの誕生からおよそ500年ほど前、メソポタミア地方にあった新バビロニア帝国が勢力を拡大し、ユダヤもこれに支配されます。このとき、多くのユダヤ人が捕えられ、バビロンに連行されていきました。これが「バビロン捕囚」です。

約50年後、新バビロニア帝国は、アケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるのですが、これによって、バビロンに連行されていた人々も解放されることになりました。

多くはユダヤに戻ったのですが、バビロン周辺に残った人たちも多くいました。そうした彼らによって、「ユダヤ人の信仰」が東方の人々にも伝わっていたようなのです。

ユダヤ人の信仰として、この場面で重要と思われるのは、おおざっぱに言って、次の二つかと思います。

ひとつは、「神は、ユダヤ人を救うために、やがてユダヤ人の王、救い主をお遣わしになる。」

もう一つは、「ユダヤ人の神は、ひとりユダヤ人の神ではなく、全世界の神である。」

占星術の学者たちは、ユダヤ人ではありませんでしたが、ユダヤ人の信仰に触れ、信じてもいたのでしょう。

だから、「東方でその方の星を見た」とき、彼らは「拝みに来た」のです。

距離にすると、1,000㎞以上の旅になります。簡単に行ける距離ではありません。多くの犠牲を払う覚悟が必要とされます。危険も伴うはずです。

しかし、それでも、彼らは「行こう」と思った。
安定した生活から飛び出すことになっても、しかし、それでも彼らは行こうと思った。

なぜでしょう。
ユダヤ人の王としてお生まれになった方を、どうしても拝みたいと思ったからです。

「その方を拝みに来たのです。」
この言葉に、彼らの 「神を求める心」 が表れています。


みなさんは、「神を求める心」をお持ちでしょうか。

神を求めるというのは、ご利益を求めるのとは、ちがいます。

神仏にご利益を求める。そういうことは、人として当然あると思います。

しかし、ご利益さえ得られるなら、べつにどの神様でもかまわない、ということになると、その人が求めているのは、まさしくご利益なのであって、神ではありません。

神を求めるというのは、ご利益を求めるのとはちがって、「神様というお方を知りたい」、「その神を信じる者になりたい。そのお方を拝みたい(礼拝したい)」ということなんですね。

私は、小学4年生のときに、父を病気で失いました。父を助けてほしいと、それこそ神仏に祈りましたが、神様がどこにおられる、どのようなお方かがわかりませんでした。祈りに手応えを感ずることができませんでした。

父を失い、思春期に入って、死ぬこと、生きること、大人になることなど、いろいろと悩み始める中で、「もし神様がおられるのなら、そのお方のことを知りたい。生きていく上での支えがほしい」と思うようになりました。

占星術の学者たちにも、彼らの人生があって、その中で「神を求める心」が生まれたのではないでしょうか。そして、その方の星を見たときに、「拝みに行きたい、拝みに行こう」と思った。

彼らが星を見て出発したのは、彼らの中に、「神を求める心」があったからです。


2. 彼らは、星に導かれた。

星を見て出発した彼らが向かった先は、ユダヤの都エルサレムでした。生まれた方はユダヤ人の王となるお方なのですから、都エルサレムに向かうのは、当然と言えば当然です。

ここで、ユダヤを治めていたヘロデ王とのやり取りが出て来ます。これはこれで大変重要な場面なのですが、今日は先を急ぎます。

占星術の学者たちは、「王となる方が生まれた場所は、ベツレヘム」と聞かされ、都エルサレムをあとにします。

画像すると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。

学者たちは、その星を見て喜びにあふれます。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられ、彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのでした。


彼らを導いたこの星は、いったい何だったのか。
神の奇蹟か。それとも天文学的に説明できる自然現象か。

いずれにせよ、彼らがこれを不思議な星としてとらえ、この星が私たちを導いてくれたのだと受け止めているところが大切です。

ここから言えること、それは、「神は、神を求める者たちを、ご自身のもとに、必ず導いてくださる」ということです。

学者たちは、ユダヤ人ではない異邦人で、それもユダヤから遠く離れた地に住んでいる人たちでした。

しかし、どこの国の人であっても、どんなに遠く離れた所に住む人でも、神は、神を求める人々を決してお忘れにはならない。神は、神を求める人々を必ず導いてくださる。それがこのお話の中で大切なことなのです。

私もそうでした。中学3年生のとき、たまたま読んでいた音楽雑誌に、教会の賛美歌のことが載っていて、「ああ、教会に行って賛美歌を聴いてみたいな」と思いました。

それがきっかけで教会に行くようになり、聖書を読み、イエス・キリストについて知り、神を信じるようになりました。

今思えば、あの音楽雑誌を手にとって、あのページを開いたことこそ、私に対する神の導きだったのではないか、と思うのです。

「いつか神様のことがわかるようになりたい。」
神を求めていた私のために、神は星を光らせて、ご自分のもとに導いてくださった。私には、そのように思えるのです。

神は、神を求める人々を、ご自分のもとに、必ず導いてくださいます。


3. 彼らは、自分たちの国へ帰って行った。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方を探し当て、その幼子の前にひれ伏し、贈り物を献げると、彼らは自分たちの国へと帰って行きました。

その後の彼らのことは、聖書には出て来ません。
無事帰り着くことができたかどうか。帰った後、彼らはどのように生きたのか。それはまったくわかりません。いずれにせよ、彼らは自分たちの生活に戻って行ったのです。

しかし、もはや彼らは以前の彼らではありませんでした。
救い主にお会いし、拝むことができたという「喜びを持って生きる者」となったのです。

これは想像ですが、自分たちの国に帰るその旅の途中、多くの旅人がそうであるように、彼らもいろいろな人に出会い、聞かれたと思うのです。

「どこから来たのですか。どこへ行くのですか。そこへ何しに行ったのですか。」

「私たちは、ユダヤのベツレヘムに行って来ました。今は、自分たちの国に帰る途中です。ユダヤまで行って、ユダヤ人の王、世界の救い主としてお生まれになった方を拝んできたのです。」

なぜ、ユダヤまで行こうと思ったのか。
どうやって、幼子のところにたどり着いたのか。
幼子を拝むことができて、どんなにうれしかったか。

彼らは、そういうことを人々に話して聞かせたのではないかと思うのです。

自分たちの国にたどり着いても、それは同じことだったでしょう。
救い主を拝むことができた喜び。彼らは、その喜びを、人々に語り伝えながら、その後の人生を生きたのだと思うのです。

理解してもらえないこともあったと思いますが、彼らの話を聞いて、神を求め始めた人たちもいたことでしょう。いずれにせよ、彼らは彼らが体験したこと、そして彼らが得た喜びを、人々に語り続けたのではないかと思います。

私も同じです。神を知り、神を信じることができた喜びは、私にとって他の何にも代えがたいものでした。

大学を卒業して、一度は公務員になりましたが、神様のことを伝える人になりたくて、それで仕事を辞めて牧師になる道を選びました。

周囲の人々は、「せっかく難しい試験に合格して公務員になったのに、それを辞めるだなんて…」、「どうして、そんな不安定な人生に飛び込もうとするのか」など、私のことを心配してくれました。

でもですね……、そうしたかったんですよ、私は。
神が与えてくださるその喜びを伝えたかった。

もちろん、信者になった人たちが、全員牧師になるわけではありません。でも、牧師になるならないにかかわらず、神が与えてくださる同じ喜びが、私たち信者みんなの中にあるのです。

神を求めていた学者たちが、不思議な方法で救い主に導かれ、喜びを持って生きるようになった。

私たちも、神を信じる喜びを持って、人生を歩んでいます。


さて、みなさん。

今日お読みした聖書のお話は、昔々のお話ですが、学者たちを導いた神様は、今も生きておられます。その意味では、聖書のこのお話は、私たちのための物語でもあるのです。

私は思うのですが、みなさんが今日、この場におられること自体が、神の導きなのではないでしょうか。神様は、みなさんを導く星を、みなさんお一人ひとりの上に輝かせておられます。

そうした星の輝き、神の導きに気づき、「そうだ、私も神を知る者となりたい」と、「神を求める心」を持つとき、みなさんにとっての 「神を求める旅」 が始まるのではないでしょうか。


というお話をしました。


画像毎週10~15人が集まる、肩肘張らない素朴な教会です。

信者であるなしにかかわらず、どなたも歓迎いたします。お気軽に礼拝にお越しください。


元日には、「新年礼拝」があります!
 日時 2019年1月1日(火) 午前11:00~12:00
 場所 富山キリスト教会
 入場無料です。
信者であるなしにかかわらず、どなたもご参加いただけます。
初詣も、ぜひ教会にお越しください!

お問い合わせは…
 富山キリスト教会  電話&FAX 076-491-4622 まで。

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